天智3年(664)唐、新羅からの侵入を防ぐために、対馬、壱岐、九州本土に防人が配備された。この対馬の防人に食料を届けるために三井楽から発航したと万葉集にある。わざわざ距離も遠く危険度もあるのに防衛上の役割があったのか。その中に、年老いた漁夫に代わった福岡の糟屋郡の漁夫荒雄が、美弥良久崎から対馬に船出して暴風雨で沈没し海の藻屑となった。この時のことを荒雄の妻子が「大君の遣はさなくにさかしらに 行きし荒雄ら沖に袖ふる」と歌に詠んだ。当時の筑前守山上憶良は「荒雄らを来むか来じかと飯盛りて 門に出でたち待てど来まさず」など「筑前國志賀の白水郎の歌十首」を詠んでいる。これをもとに三井楽町が「西のはて万葉の里」づくりをはじめた。