宇久家第3代太よりでて12代の孫、玉之浦十郎の子である。交易によって、宇久氏を凌ぐ勢いであり、叛乱の噂もあったため囲は妹を納の妻に出していた。第16代宇久囲に反逆したものの、結局当時の深江に拠点を構えず、大宝に館を築いていたとされる。反逆のきっかけも、一部の者にそそのかされた面もあったようで、その子第17代宇久盛定に15年後追われ、嵯峨島で自刃し、丹奈の浜で首をさらされたといわれる。嵯峨島の小野神社や玉之浦墓地、西方寺などで手厚く祀られているところから、また反逆した吉田外記なども大津の高台に今もって祀られている伝承など考えると、玉之浦納の地元に於ける存在がどの様なものであったのか判然としない。この時代の歴史上の真実が、その後の江川城の火災などもあってか、充分解明されていない。