五島藩でいつ最初の栽培がなされたかはっきりしないが、寛文年間(1660~)には各農家で栽培され百姓町民をはじめ家中の婦女や下男下女が食用としていた記録がある、と『若松町史』にある。当時は種芋が普及せず芋の苗の量が乏しかったが、その不足量を他領から入港する船に仰いでおり、一度に多量に買うことは禁じられていた。芋が麦や米のように重要な作物になったのは明治以後と言われ、廃藩になって自由に作れるようになったからである。富江の田中庄三郎、田原伝吉の両名が鹿児島との取引で移入し増殖することができるようになったことから、富江の農協前に顕彰碑が建てられている。